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叔父(義照)に会う

二泊三日で日和佐に帰り叔父に会う。

いろいろな事を問い、教えてもらった。
叔父は母の弟で大正6年生れ伝説の人だ。
その父は、東禅定という。
生涯、8000枚の護摩行を数回焚く。


太龍寺と薬王寺の住職を務め、
太龍寺では、真言宗の若者100人の教育に当たる。
高野山に大学がなく、高野山が落ちぶれていた時代である。
密教辞典にその名がある。現在94歳の叔父は、今でも車に乗り、
国道55号線を60Kでぶっ飛ばす。
3年前の2月にわざわざ京都に来た。車で会いに来られた。

高野山高校出身。 
戦争中に約200名の幹部候補生の一人としてノモンハンに行く。
そこで九死に一生を得る。時の軍部は、訳のわからない、
ただ川ひとつの取り合いで、ソ連及び蒙古と戦争し、
多くの戦死者を出し、泥沼に足を踏み入れたような大義のない戦争
(ノモンハン)について批判していた。

「連帯長のメンツで行った戦争である」と。
叔父は、その時のその時の大尉である。
戦車部隊の後方の武器と食糧を最前線に運ぶ、輸送の責任者でもある。
叔父の話を約二時間テープ5本に録音する。
連帯長との意見が合わず首を覚悟で口論したという。
ある時はつっこんできたソ連の戦車にはねられたこともあるという。


陸軍と海軍の意見が合わず大陸では、ソ連と戦争。
南方ではアメリカとの戦争。時の軍部は、
なんでこのような戦略のない戦争をしたのかとよく語っていた。


戦争が負けそうになり、ノモンハンが終わって、
本土防衛のため皇居の防空壕の補強のための責任者となったという。

一日、二百台あまりのトラックを皇居内に乗り入れ、
天皇の馬場を無断でこわし、短期間に工事をなし終えたという。
そのためここでも連帯長と工事のやり方で喧嘩をしたという。


戦後、真言宗大覚寺派観音寺(徳島県で唯一菊の御紋のお寺開祖は
高野山を復興させたきしん聖人)の自坊に帰る

時をへて、昭和50年から56年まで大覚寺の財務財部長となった。
負債30億から40億の負債(時の宗務総長味岡一派が作ったという)
負債を6年間かかって負債をゼロにする。いろいろな政治家に会った。

その心労の結果、
6年後に、膵臓癌となり自坊に帰って護摩をたいて治す。

財務部長の件は最初は断っていたが、
管長からさいさんにわたってたのまれたので引き受けたという。

日和佐の町では長い間、町会議員となり、
徳島新聞でもとりあげられたゴルフ場問題
(日和佐の町のゴルフ場設置にからみ、町会議員の中でゴルフ場誘致反対は叔父だけ。
他の議員はみな賛成。
これに汚職がからんできたので、
叔父が反対し告発し裁判の一歩手前で町長と和解した)は
取りやめとなた。先見の明がある叔父だ。


90歳になってから戦車に跳ね飛ばされて首と腰をうった
後遺症がでてきてその解決のために頑張っているという。
貴重な戦争体験の話(五味・半利著に書いていないモノンハンの事)
話をたくさん聞くことができた。

さらに今回は、バジュラと般若心経秘剣に
ついて詳しく聞くことができた。
空海聖人は、一つの物事についてあらゆる方向から眺めて

事物を詳しく解説するクセがあるという。

だから説明が多い。講釈が多いと言っていた。
秘剣での般若心経を5つに分けての解説と、
バジュラについて叔父から学んだ。
東家の墓掃除をした後、
日和佐の海岸で海の行をして京都に帰った。

                   2011年1月2日記